久しく、城巡りしてなかったのですが、何気に写真を見て行きたい衝動にかられました。
月山冨田城、なかなかの見応えのある山城のようです。行ってみたくなる要素がたくさんあります。
ただ、尼子氏はあまり詳しくはなく、鳥取島根あたりの大名で戦国時代の早い段階で毛利氏に滅ぼされたくらいの認識しかない。尼子氏より山中鹿之助のほうがよく知ってる…
城巡りの前に多少の予備知識がほしくて検索してみると城だけでなく尼子氏にも興味が湧いてきます。そこからその土地の地理や歴史にも興味がでてくる。
そうなると行くしかない。こうした好奇心が旅の原動力になるのでしょうね。
せっかく米子の方まで行くのなら近くのお城も攻めてみよう。
月山冨田城と関係の深そうな松江城、そして米子城を周る行程で行こうと思います。
月山富田城:山陰の覇者尼子氏の難攻不落の天空の城
月山富田城へのアクセス
車でのアクセス:
大阪からは中国道、米子道、山陰自動車道と乗り継いで(3時間程)、山陰自動車道の安来ICからおりて、およそ15分くらいで着きます。
佐用J.C.から鳥取道に進み山陰自動車道(一部一般道を経由)と行くと30分以上余計に掛かりますが2000円前後、安くなります(大阪から。夜間休日でも変わります)
バスでのアクセス:
JR安来駅からイエローバスが出ています。最寄りバス停は「月山入り口」で、その名の通り、入り口のすぐ近くにあります。ただし、本数がそれほど多くないので、利用の際は事前に時刻表のチェックをお忘れなく。
また、駐車場については、「広瀬・富田城」という道の駅が最寄りの駐車場となります。道の駅には40台くらいの駐車スペースがあり、余裕で駐車できるようですね。
さらに、道の駅以外にも、山頂にだいぶ近いところに駐車場がありますが、近いと言っても七曲りの下なので…
しかも山中鹿之助像を過ぎてるし。
今回は道の駅に停めます。
さて、
私はいつも通り夜中に出発!
高速料金を節約するために少し遠回りですが鳥取道経由で行きます。鳥取周りでも山陰自動車道の無料区間が伸びてるので一部まだ工事中の所はありますが、ほぼ自動車道で行けますので、私はそんなに苦ではないですね。
朝、6時過ぎに到着。
G.W.(4月28日)でしたがスムーズに来れました。
こんな時間なのにわりと人はいるのね。10台くらいは駐車してました。
月山冨田城:見どころ
島根県安来市に位置する月山富田城は、出雲を支配した尼子氏の本拠地であり、山陰の要衝として重要な役割を果たしました。
その規模と急峻な立地は、難攻不落の要塞として知られ、尼子晴久の代には「天空の城」とも称されていたと。
結構、険しいのか??最近ちょっと体力に自信がなくなりつつある。不安がよぎるけど…
駐車場から城の登り口の方に向かうとすぐに案内板がありました。
歴史資料館が開いていればガイドのパンフレットなどもあったんだろうけど、朝早くてまだ開いてはいないので写真を撮ってマップ代わりにします。
朝日が眩しい。気温はやや涼しくて山城にいくにはちょうどいい。
少し登った所。
さらに登ると尼子神社。御祭神は尼子三代当主。
尼子神社の横を過ぎて進むと太鼓壇公園、千畳平跡となります。広い場所ですね。朝露で靴が濡れる。
太鼓壇跡に山中鹿之助像がいます。
ここで太鼓を打ち鳴らして時刻や兵の招集を行ってたと。
太鼓壇公園はなんだろう…太鼓壇跡からは少し離れるけど、兵が集まる場所??
太鼓壇公園、太鼓壇跡と少しづつ登ってます。さらに少し登るとドーンと七曲りが現れる。
近づくとなかなかスケールがあるな。
でも、まだここから七曲りまでは距離があった。
画像下に見える建物が花ノ壇跡。薬草などを作っていたそうです。
とても広い。山中御殿跡。平時の居住していたところらしい。ここに館が並んでたのかな。
山中御殿という名から。鹿之助の住んでたところかと勝手に思いこんでた。
「やまなか」でなく「さんちゅうごてん」なのね(笑)
ついでにいうと、「がっさんとだじょう」も「がっさんとんだじょう」と読んでた。
これは関西の地名で富田を「とんだ」というところがあるから。(摂津富田や富田林など関西では普通??)
月山富田城は三か所の登り口があるそうですが、中腹で合流してるので結局この七曲りを行くしかなく、攻めにくく守りやすいんだそう。
左手にある、何かの門の跡っぽいところに入っていきます。
七曲りが見えてきました。
いよいよ七曲りに行きます。
「上から狙われたら全滅でしょ」
かなり登った所で振り返りるとこんな感じ。写真では伝わらないなあ…
整備されてるので、まぁ登りやすいほうかな。
かなり登った所に井戸の跡。
山城には貴重な水ですよね。今も水が流れてるのはすごい…
石垣が見えてきた…もう少し…
七曲りを登りきると正面に三の丸の石垣。右に振り返ると西袖ヶ平というひらけたところがあります。
お城っぽくなった。
西袖ヶ平。
しっかりとした石垣を登ってみると、三の丸から二の丸と続いてる。
思ってたよりかなり奥に広い。
二の丸跡の奥まで進むと、堀切があり、その向こうに本丸跡。
本丸跡も二の丸跡から見た印象と違ってかなり広い。
途中に「山中幸盛の塔」
本丸跡の奥に勝日高神社。御祭神は大国主命。
尼子氏の時代は代々城内の守り神として厚く信仰されていました。
ここから、戻っていきます。
三の丸からは遠くまでよく見渡せます。遠くに見えるのは日本海かな?
降りるのは早い。まぁよく登ってきたなぁ…
七曲りを降りて山中御殿跡までは一本道、同じルートを行きます。
大土塁を見に少し違う方へ。
とても良い山城だったなぁ。
規模も大きいし、常時の広い場と有事の時の防御力の高さが、素人目によく解って面白い。
自分なりに割とゆっくり回って3時間くらい。
七曲りは一気に登るのでキツイですが綺麗に舗装されているので、振り返りながら休み休み登ればいいと思います。
あとは、要所要所見どころもあり、あっという間ですね。
難攻不落の山城と聞いて少し心配していましたが、そこまできつくは無かったです。
このあと、松江の方に向かいます。
月山富田城の歴史
川向こうの公園に経久の像があります。
今回、初めて月山富田城に行くのである程度予習しておきました。それを簡単に記しておきます。自分の為でもありますけど(^^)
月山富田城の歴史
月山富田城は、その壮大な歴史とともに、日本の城郭建築の優れた例として、多くの歴史愛好家や観光客を魅了しています。
島根県安来市に位置するこの城は、日本100名城にも選ばれるほどの重要性を持っており、日本の歴史における重要なマイルストーンの一つです。
築城時期については諸説ありますが、月山富田城は出雲守護の居城として長い間使用され、平安時代には平家の大将である平景清によって築城されたという伝承も残っています。
尼子氏の時代には、尼子持久が入城し、尼子経久が戦国大名として独立。尼子氏は中国地方の覇権を巡って他国と争い、尼子晴久の代には山陰・山陽8カ国守護の大大名となりました。
しかし、1565年に毛利元就による攻撃を受け、尼子氏は滅亡。その後、城は毛利氏の領地となりました。1600年以降は堀尾氏が城主となりましたが、1611年に堀尾忠晴が松江城に移ると、月山富田城は廃城となりました。
現在、月山富田城は国の史跡に指定されており、その保存と整備が進められています。城址には尼子経久や山中鹿介の像が建てられ、戦国時代の要害としてのその規模と難攻不落の様子を偲ばせます。石垣や堀切など、当時の面影を残す遺構が今も訪れる人々にその歴史を語りかけています。
月山富田城は、日本の戦国時代に重要な役割を果たした城で、その歴史は非常に興味深いものです。
月山冨田城の戦い
月山富田城では数回の重要な戦闘が行われました。その中でも特に有名なのは、第一次と第二次の月山富田城の戦いです¹。
- 第一次月山富田城の戦い(1542年 – 1543年): 大内義隆が毛利氏などの諸勢力を引き連れて尼子氏の本拠地である月山富田城を攻めました。しかし、城攻めは難航し、大内軍は撤退を余儀なくされました。この戦いは大内氏衰退の一因となり、一方で尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出しました。
- 第二次月山富田城の戦い(1565年 – 1566年): 大内氏滅亡後、毛利元就が再び月山富田城を攻めました。この戦いにより尼子氏は滅亡しましたが、その後に尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦いもありました。
これらの戦いは、それぞれ戦国時代の動向を反映しており、歴史的にも重要な戦いとなりました。
これらを知って訪れることでその歴史を深く感じることができます。
月山冨田城から松江城へ行く
月山富田城のあとは松江城に向かいます。
今回、月山冨田城から松江城というルートにしたのは歴史もそうなっているから。
堀尾忠晴が月山富田城から松江城へ居城を移したので、まぁそれに倣ったというか…
松江城への移転
堀尾忠晴が月山富田城から松江城へ移った主な理由は、軍事的な不安、城下町の開発の困難さ、および治める地域の拠点としての不適切さでした。
月山富田城は戦国時代の要塞としての役割を果たしていましたが、平和な時代の到来とともに、より経済的で政治的に適した場所への移動が求められました。松江城の地は、交通の利便性が高く、経済的にも繁栄していたため、堀尾吉晴はここに新たな城を築くことを決定しました。
月山富田城の立地は軍事的には優れていましたが、城下町を発展させるには不便な地形であり、平地が少なく、出雲・隠岐両国を治める拠点としては不向きであったとされています。また、京羅木山が近くにあり、軍事的に不安があるという点も移転の理由として挙げられています。
さらに、月山富田城の周辺は、かつては船で往来が可能な水路がありましたが、時代が下るにつれて水量が減少し、海へのアクセスが困難になっていました。これは、城からの物資の輸送や交易に大きな影響を与える要因となりました。
松江城への移転は、堀尾吉晴の質実剛健な性格を反映しており、外見は地味ながらも、堅固な構造を持つ城として知られています。また、月山富田城の木材を流用して建設されたことも、経済的な観点からの合理的な選択であったと言えるでしょう。
堀尾忠晴の移転は、時代の変化とともに、より効率的で経済的な城下町の開発を目指す戦略的な決断であったと考えられます。
松江城とその城下町は、現在の松江市の礎を築き、地域の歴史と文化に大きな影響を与えています。
月山富田城から松江城へのアクセス
- 車でのアクセス:
少し戻りますが 安来ICから山陰自動車道に入り、松江東ICか松江西ICでおりて市内を走ればおよそ40分くらいで松江城に到着します。
また、高速道路以外にも国道432号線を進む道があります。 - 公共交通機関でのアクセス:
バス停「月山入口」からバスに乗車し、バス停JR安来駅で下車します。その後、JR山陰本線でJR松江駅まで移動します。松江駅からはバスを利用して約10分です。
私は、国道432号線を通って松江に向かいました。
地図で見ると山越えになるからキツイ峠道も考えていましたが、一部細くなってたところはありましたが、綺麗な道路で難なく行けました。
松江の市街地に出るまでは交通量も少なくスムーズに行けます。
松江城
松江城
現存天守: 松江城は全国に12城しか残っていない現存天守の1つです。現存天守は江戸時代またはそれ以前に建てられ、壊れることなく現代に姿を残す特別な存在なのです。
附櫓(つけやぐら): 松江城の天守は付櫓が接続する複合式天守のため、天守に入る前に付櫓を通過します。ここでの見逃し禁止ポイントは、壁に空いた穴! この穴は「狭間(さま)」といって、鉄砲を撃つための小窓です。
地階: 天守に入ると、目の前には珍しい遺構が! 松江城の地階には井戸や、塩の貯蔵庫も⁵。万が一籠城した時のことを考えて飲み水、備蓄食料を確保していたことがわかります。
階段: 天守の1階~5階には、狭間、隠し部屋、石落としなど戦うための装備が見られます。なかでも階段は、天守ならではの急な勾配です!
石垣: 5年間という築城期間のなかで、石垣の工事は3年もかかったといわれるほど重要な基盤。お時間のある方は石垣も観察しながら進んでいきましょう。
米子城
築城: 米子城は、応仁から文明年間(1467年から1487年)に、山名宗之によって砦として飯山に築かれたのが始まりと伝えられています。その後、西伯耆の領主となった吉川広家が天正19年(1591年)に本格的な城として築城を開始しました。
吉川氏の時代: 吉川広家は関ヶ原の戦いの後、岩国に国替えとなりました。それまでにほぼ7割が築城されていたとされています。
中村氏の時代: 慶長6年(1601年)、伯耆国18万石の領主として中村一忠が封せられ、慶長7年(1602年)ごろ、米子城は完成したといわれています。
その他の城主: 中村氏の後は、加藤氏、池田氏などが城主となりました。特に、池田氏の一族の池田由之が米子城預かりとなり、その後、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。
廃城: 明治2年(1869年)、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。そして明治6年(1873年)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなりました。